昭和57年9月19日  朝の御理解   大坪かよこ

御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。



  
 家庭が円満でありたい、ほんとにできるなら、毎日を元日のような心で過ごせたら、どんなに有り難いことだろうかと私は思わない者はないと思うですね。
はあ、家の中は不和でよい、ね、そげな元日のような心なんかには、いつもなれるもんじゃ無い、ともうその辺のところでね、いわば高をくくってしまう。
一切のことはほんとにそんなに、心の中に有がたい、めでたいなーというような心が、持ち続けられたとするなら、家庭がもういよいよ、それこそ水も漏らさんような、円満な、平和な家庭であったらとこう、願わんものはないと思う。
ほんと皆さんもそれを願わにゃいけません、本気で願わにゃいけません。
それには、ね、日々の改まりが第一じゃと仰せられます、ね、だからそういういとえば、ね、結構なおかげをです、頂けれる道があるのですから、ね、家庭円満日々が元日のような心でうれしゅう楽しゅう生きて行けれる手立てがあるのですから、あるなら、何のけいこよりもまず、その稽古に本気で打ち込むことじゃないでしょうか。
私は合楽の信心はそれだと思うんです。
ね、何々は合楽理念を持ってするほかない、何々は合楽理念を持ってするほかない、とこういうのですから、家庭の円満も、ね、いうならば、健康も一切、人間の幸せになると言うことは、ご理念を持ってするほかはないと言う、一つの思い込みを作ってです、みんながそういう願いを持っておるのですから、ね、そういうおかげの頂けれる、手立てを教えて頂くのですから、そういう道を一つ本気で辿らせてもらおう、本気でそういう道を体得しょう、それには日々の改まりが第一じゃ、ということになるのですね。
ところが、日々の改まりということを第一としなければならんのですけれども、自分が改まろうとせずに、家内があらたまってくれると、主人が改まってくれると、子供が言うことを聞いてくれると、ということになるのです。
自分以外のものにそれを置く所へ、いつまで経っても、稽古しても稽古しても、稽古栄えがせんのです。
うちの嫁があああってくれるといいけれどもと、家の息子が、と自分以外の者に、そうあってくれたらさぞよかろうと思うところに、おかげが受けられんのです。
ね、そういう祈りをしかも切実に、昨日のご理解から頂くと、真を持って、それが祈れれるようになる。
真というものは自分が、改まるに従って、その真というものはほんとの光を放ってまいります。
ね、家にはもう、嫁ご一人が、いっちょ、まぁ、言うこと聞いてくれるとうちはこっとっともいわんばってんと。ね。それを嫁のせいにしたり、自分以外のもののせいにする所へ、ほんとのいうならば、元日のような心で暮らすこともでけなければ、家庭に不和のなきが元と言われる、その元を頂ききれずに、失してしまうわけです。
ね、それにはまず、日々の改まりが第一。
そこでまあ、いうならば、真の追求ということになるのですね。
合楽ではそういう気になりますとですね、はあ、真ちゃ尊いもんじゃなーと、ほんとに真ちゃ、通ずるもんだなー、と感じれれるようになるです。
ですから、いよいよ真の追求をせずにおれなくなってくるんです。
そういう働きが合楽にご縁をいただいとる人達にいっぱいあっているんです。
三潴の方から、もうここ小一年、熱心に参ってくるおばあちゃんがあります。
毎日参られるから息子やら、周囲の者がそげん毎日参らんでんちゅうて、そのちったその電車賃やら、そのお初穂が惜しいように言う。
ね。、そこでまぁ、いろいろとまあ、工夫をしては参って来るのです。
私は、田舎におって畑を作ってたことがございませんでした。
けどもこちらであの、おかげを頂くようになりましてから、ね、畑つくりを始めました。
そしてせっかく作るならば、親先生が、お好きな野菜を作らしてもらおう、と思うようになりました。
ところがもうあんた方には始めてこんなもん作るとに、ようこげん、ようでくるのと人から言われるくらいに、おかげいただいております。
ね、昨日も、参拝して見えてから、沢山にがごりを、それから、あれは、みずいもというでしょうかね、茎を食べる、を沢山持って見えて、親先生お好きだそうですからお願いして作らせてもらいましたら、こんなに見事にでけたとこういうのです。
それで私はこの水芋が沢山でけましたから、皮を剥いて、あの、芋がらにしようと思いますから、どうぞお繰り合わせを頂きますように、ということであった。
いやー、そりゃ、にがごりも好き、水芋も、私はあの酢醤油で頂くのが大変好きだけれども、それを芋がらにしたのはもっと、私は好きなんだと。
もうここに、あんたの名前とおんなじように中島というところのね、上滝さんという人があります。
もう九十からなるおばあさんですけれどもね、もう若いもんはしませんから、親先生が年に一回づつ宅祭りに来て頂く、もうそんとき必ず、その芋がらを、あのさし上げる。
だからそこに行って、年に一回づつ芋がらを食べるのを楽しみで行きます、と言うて話したらね、もうとにかく喜ばれるんですよ。そういうことを知らなかった。年に一回しか召し上がらなさらん、それでもう、好きなものを私がここに作らせて頂いて、私がふっと気が付いて、これを、その頂ききらんところを、みんなあの、皮剥いて、まぁ、芋がらを作りたいと思う。
しかもそれは中島ちゅうとこですから、自分の名前と同じだったから、なにかそこに実感としてね、感じられたらしいんですよ。
ね、そして昨日、真で通じない、通わないはずはない。
もう、にがごりなんも他所へんのつはもう、はよもう成らんごつなっとるというのに、私のは今しっかり成りますから、お参りするたんびんにお供えがでけると。
ほんとにもう、真心ちゃ有り難いなと言うて、申しましたことですけれどもね。
私は真心の追及とはそんなことだと思うです。
ね、そしてその真心がです、ならこう通じるわけです。
ね、昨日、野口さんがお参りされて、ね、いわゆる、姪御さんと母親の、子供さんがないから、あの、ここの野口さんのお姉さんになる、熊本の、それをくみこさんという一家が、まぁ、見てあげとる訳ですけども、始めの間はもう、両方ともとっても喜びよった。
立派なお家だし財産はあるしね、ところがその最近になってもう両方から、こう、ま、具合よういかんごつなった、くみこさんはどっか働きに出たいというふうに、昨日、あち、里ですから、野口さんところが、電話がかかってきてから、親先生にお願いをしてください、こんなふうな状態だから、と。というお願いであった。
ね、始めの間はこっとりとん言わん、よかったところが、段々日が経つに従って、そこにこう、まあ、具合よういかなくなったとこう言うのです。
そりゃまあ、叔母、姪の事ですから、ね、誰が見るよりも一番私はいい、もうその叔母さんというのもご主人が先年亡くなられましたから、お一人暮らしなんです。
ですからもう、誰に見てもらうよりも、そのくみこさん達一家に見てもらったが一番よかろうごとあるけれども、そこにいうなら、こう白々しいものになってきた。
それをくみこさんはくみこさんで里に電話をかけてきた。
なら、今日お参りをするから、お願いをさせて頂こうと、ね、そして言われるんですよ。
ね、今朝方から、こういうお夢を頂きました。
ある、こう食料品店のところへ、お夢の中で行っておった。
したとこに久富繁雄っちゃまがおられちから、コップに氷を入れて、氷水をこうささげておられるから、はあ、どこにおい出られますか、ちゅうたら、親先生にお水を差し上げるとこういう、そういうお夢をいただいておったという話をそこで昨日したんですよ。
したらほんのその寸前にここへ、コップにいつもこう、陶器の茶碗に、あの、どくだみの冷やしたやつを頂くんですけども、昨日に限って、久富さんがね、その冷たいお水に氷を浮かして持ってきちゃったんです。
皆さんも、・・?今朝お夢を頂いたばっかりのところへ、そういう目の当たりにそれを見せて頂いて、ほんとに真、真心ちゃ通ずるからな、と私が申しました。
くみこさんに電話ばかけてください、ね、結局、ね、真で通じない、通わないということはない。
ね、叔母さんじゃない自分自身が、もうついっぱいのことをしていると思うけれども、真が欠けておるのだと、真とはこんなにも通ずるもんだと、通うものだということを、あなたが頂いたお夢と、今ここで見たこの状態を話して、真の追求をするごと、前から信心はありますですからね、くみこさんも、だから、話が分かるだろうから、あの本人が、ほんなこと真が欠けておったと悟るところから、またおかげ頂くだろうと言うようにです、合楽ではそういう働きがいつもあってるわけなんです。
その中島のにがごうりの話じゃないけど、芋がらの話じゃないけど、ね、・・?さんと野口さんが頂いたという、そのお夢といい、そのことといいです、そういう働きがいつもあっておるから、お互いがその気になって、・・?です、ほんなこっちゃあるじゃろうか、といったような気が起こらんです。
その気になったら、そうせずにおれないような働きを受けておる、それを知らん顔しておる、ということは、日々の改まり、という心がない証拠である。
ね、実際なら、思うておるかと、思うておらんかというと、思うておる。
円満でありたいとも思う。ほんとにもし、にがう、教祖様が仰るように、ね、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら、元日と思うて暮らせば、とこう仰る。
そいう暮らし方がでけるなら、さぞよかろうと思うておる、そうありたいと願いながら、なら、そうなれれる道というものを、聞こうともしない、あることをしなかったらいつまでたってもおかげにならん。
して人間ちゃこんなもんかというて、高をくくってしまうわけ。
ね、そういう道があるのです、嬉しゅうありがたく暮らせる道があるのです。
家庭にもそれこそこっとりともいわんごたある、おかげの頂けれる道があるのです。
ね、それを私自身が頂いて、皆さんに聞いて頂いておるのですから、間違いがないです。
ね、私のほうには、いうなら、息子たちが四人の、嫁たちがおります。
それに長女たちが夫婦おります。ほしてこれだけ沢山な、ま、所帯持ちの先生方が沢山おります。
ほらもう私が下がるころ、ここを下がりますと、もう子供達でいっぱい、もう家内がまるっきり、保育園の園長さんのごたある。
もうどの子もこの子もないです。
ね、そういう中にですね、いうならば、不和というような言葉が家にはいらんというくらいに、ありませんですね。
まぁ昔からよく言われます。お教会はお広前だけでよい、奥にはいるとおかげを落とすと、こういう。
はあ、お教会だから、立派じゃろうと思うて、裏に下がる、行ったところが、いろいろな不平不満が充満しておったり、教会の人達がこんなことでというような事にあたると、合うとおかげを落とすといわれておりました。
ところがここで、皆さんがまあ、いうて下さるんですけれども、ね、裏の方へ入れば入るほどおかげを頂くといわれます。
それが私のほうではね、家庭に不和のなきが元というてそのことに心がけておるということではないけれどもです、これは私の信心を芯として、あの嫁ごがあげんあってくれたらええけれども、家内がこうしてくれるといいけれども、というものがさらさらなくなって、私自身が助かっておるところに、みんなが潤うてくる、助かってくるのです。
ね、だからそういう道があるんです。手立てがあるんです。
ですから、そういう人に求めず、人があああってくれたらよかろうと思わずに自分自身がいよいよ助かる、しかも為には、いよいよ真の追求をすることです。
嫁ごに通じない、私がこう嫁んこつ思うとるばってん、通じない、そりゃまだあんたが真が足らんからだと言われとると思うてです、真の追求をして、その真が通うときの喜びと言うものはまた格別です。
昨日の中島さんじゃないけれども、はあ、そげなこつ知らじゃったと、にがごりがお好きと聞いては、にがごり作ることに決めた、水芋のあれが好きだからというてもあんまり沢山でけたから、これを干して、あの芋がらを作ろうとこう思います、たら、今私が中島の上滝さんの話をして、もう私はこれが大好きだけども、年に一回しか食べられん、そういうお好きなものを、しかも中島というところで、というその、別どうということではないけどもね、そういう引っ掛かりというか、なんか感じなければおられない働きが、合楽ではいっぱいあっておるということです。
そういうたとえば、あの、合楽の話はもう日々がです、昨夜のお月次祭のお説教頂いても、朝の御理解頂いてもです、もう私の身辺にはおかげをいただいておることと、神様のおかげををいただいておることを、ま、こう、ま、一緒にしてお話しを聞いてて頂くのですから、間違いがないです。
ね、昨日のお月次祭にもうしましたように、ね、その野口さんが、こちらへお参りをしてくる、あの市場の前を通ったときにです、ね、ほんとの黍で作った黍団子が、売り出しちゃった。
しかもそれは効能書きが書いちゃった。したら、親先生があああんなさる、こうあんなさると聞いとったから、それにこう一番こう、適したようにな効能書きを見てから、少しばっかりですけども、買うてきたという。
ちょうど昨日の三時の時でした。だから開けてみたら、美味しそうにしとるから、私が一つ頂いた、それから、修行生の先生方に皆いっちょづつ、こう配った。
ところがちっと足らんごたあるふうじゃ、行き渡ったらじゃったのちゅうたら、女子が半分、男が半分でしたちゅうもん。
ははあ、ね、半分の黍団子で付いてくる人があるけれども、ね、半分は黍団子はいただかんでも、付いてくるとがあるということだろうかな、と私は思うた。
皆さん、どうでしょう。
合楽に参ればおかげを頂くけん参りよると、ね、信心を頂くから参りよると、どうでしょうか。
黍団子やらなければ付いてこんという人、も信心を頂けることが有り難いとして、付いてくる人。しかもならここでは私の信心を神ならわせて頂こうという生き方。あれだけの沢山の人がおって、まあ、いうならばこっとりとも言わずに、治まっていっておるということは、ただ、みんながぐうぐういうち辛抱しとるとか、こらえとるとじゃなくて、それこそ毎日、元日のようにおかげを頂いておるということの事実を皆さんが見たときです、ね、そういう道があるなら、あら教会だからじゃ無い。
やはりそういう道を、みんなが辿っておるから、そういうおかげを受けられとるのですから、誰しも願いの中に、ね、家庭が不和であれば良いとか、ね、毎日毎日、それこそ、イライラ、歯がゆい、腹のたつような日々であればよかと思うとるものは一人もないだろうと思うです。
ふなら、そこに、こういう道があるとするならば、その道を本気でお互いが、習いもする、それを実験実証しても行こうという、私は姿勢を作らなければならんと思う。
ね、そういういうなら、家庭に不和のなきが元というような、もとがでけるときにもう、おかげは、絶対です。いらんと言うたっちゃ、付いてくるです。
お互いが辛抱しおうとる、こらえとると言うようなこっちゃ、おかげにゃならん。
ね、いうなら互い違いになる、おかげが、ね、どうでも一つ、そういう、いうならば、心に願って、みんながひとしお願っておる事でございますから、ね、そんならそういうおかげの頂ける道があるならば、なら、教会でひとつの手本のようなものがあるのだから、それを皆さんが、実験実証して嫁ごじゃない、息子じゃない、自分自身の真の追求をいよいよさしてもろうて、自分がまずは助かることの手立てをです、頂かなかければいけんと思うですね。どうぞ。